集団の怖さ

私は集団が苦手だと書いたが、集団生活のスキルというのは学校の授業にはない。
幼稚園・保育園から基本集団生活はスタートするのだが、幼児時代から本能で集団における人との付き合い方は自然に学んでいくのだろう。

そこで学び損ねた人間は、大げさに言えば生涯集団に苦しむことになる。

3人いれば既に小集団だ。
3人いれば派閥が出来るとも言われる。

3人の中で二人組を作れと言われればどうだろう。よく教育現場では誰かが必ずハブかれる状況にも関わらず、「はい二人組作って!」みたいなことを言う。

その中から人は好感度や集団における格付けなど様々な要素から“パートナー”を選ぶ。
「こいつはアイツより好かないからアイツと組もう」
「アイツは好きだけどみんなから浮いてるからアイツと組むと自分の格まで落ちるからアイツとは組まない」等々

イジメをなくそう、なんて言うけど小さい定義でのイジメは既にここから始まっているのだ。
みんな平等なんて不可能なのである。

集団で怖いのは、集団不適応の人間にとって、例えその集団で自分と合う人間がいたとしたとしよう。
二人きりだと仲が良く、話が盛り上がっても集団の中ではなぜか自分は避けられる。
それは相手が「自分も同類と思われたくない(自分はハブにされたくない)」という保身思考が生まれてそれが優先されるからである。

学校や職場においての集団活動は、何よりそれが最優先される。
だから嫌いな相手でもそいつが力を持っていれば、そいつと仲良くすることを優先する。
自分の好き嫌いの優先順位はその次なのだ。

私は集団が苦手だから自分に対する他人の態度を観察している。
すると例えばひょんなことから自分の評価が上がったとしよう。
それまで自分を避けていた人間や冷たくしていた人間が掌を返してすり寄ってくる場面は何度も経験した。

逆もまたしかり。私の場合、自分が何とかして集団の中で自分の格付けを上げないことには、人は周りの目を気にして私に寄ってこない。前回の「ニクメナイン」「ムシスカン」の話に連動するが、哀しいことに好感度が低く、また身体能力(運動神経・手先の器用さ等)が低いゆえ、相対評価によって私の集団での運命は決まるのだ。

例え異性で好きな人が出来たとしても、私の格付けを上げないことにはその女性と話すことすら許されない雰囲気になる。

集団生活スキルが低いというのは、イコールコミュニケーション力が欠如していることと言える。
集団における雑談力は、周りの空気を読み周りに受け入れられる話題やリアクションを取れる能力である。笑いを取れればなお良い。笑いを取れなくても、自分の投げた会話ボールを誰かがキャッチしに行きたくなるようなものを投げれる能力である。

これはもう自然に身に着けるものとしか思えない。
何かの本を読んで学ぶ後天的な努力よりも幼児期に現場で身に着けたスキルの方が遥かに大きいのだ。

特に日本という国は皆と一緒であることが重要視される。個性を否定はしないが、飽くまで周りに受け入れられる個性だ。
「あいつ変わってるけど面白い」
「変な奴だけど凄い運動神経いいんだぜ」とかだ。

変人でしかも好感度がないのがイジメの標的にされる。
それが嫌だから、能力に自信のない人間は皆から浮かないように、皆と同じ行動を取り、力のあるボスに気に入られるようにする。もしくは目を付けられないようにする。

のび太みたいな要領の悪いヤツはジャイアン的ボスに目を付けられ、徹底的にイジメられる。
そのイジメを更に加速し自分のポジションを高めて安全地帯に逃げるのがスネ夫タイプだ。
私は47年間のび太ポジションで生きてきた。それが嫌だったから、粋がって何度も喧嘩もした。

だが、先天的に喧嘩が強いジャイアンと張り合っても、疲れ果て、ボロボロになるだけだ。
かといって要領がいいスネ夫に簡単になれるわけがない。
「あんな嫌な奴になりたくない」と表面ではいいながら、実は内心憧れているのがスネ夫のポジションなのだ。

口が上手く、家も金持ち。喧嘩は弱いもののボスキャラに気に入られるスキルを持っており、総合力はかなり高い。
こういうタイプは世に出ても成功する。ただし、心が真っ黒なので、成功率が高い分詐欺など犯罪に手を染める危険性もある。
羽賀研二なんかはこれに近いタイプだろう。
容姿に恵まれ、人タラシ。これは先天的な恵まれた素質だ。
その素質に溺れて、調子に乗って人を騙しまくり、犯罪に手を染め、転落した。

集団の怖さは、こういった羽賀研二のタイプも犯罪や信頼を失墜するポカをやらかさなければ、集団の中で認められ、高いポジションに行ける可能性が高いことだ。
逆にのび太タイプ(つまり私タイプ)は、どれだけきれいごと言っても、人を傷つけないようにしても、認められない可能性が高い。
自然とハブにされるタイプである。

集団にとっての「善悪」は、集団スキルがいかに高いか、そうじゃないか、ということにある。
そしてその概念が多数決となり、集団における善悪になるのだ。

極端な集団の怖い例が戦争だ。戦争に向かっていく集団ヒステリーは、もはや善悪は消し飛んでしまっている。そして彼らは考えない。何故なら、周りに合わせていればいいのだから。
トップがヒトラーであろうが、東条であろうが、異議を思い浮かべることすら麻痺してしまっている。

私は以前、極端な集団行動を重要視する組織(班)に配属された。そこではトイレや食事まで一緒に行動し、必ずみんなが好きなお菓子を毎日用意しなければすぐに嫌われ、いじめられてしまうという風潮であった。

違和感を覚え、なじめなかった私はすぐに冷遇された。
二人きりになったら私に班の空気のおかしさを愚痴っていた男も、集団になると私を無視し、ちゃんと班長が好きなお菓子をまんべんなく用意し、明るい話題を振りまいてみんなから好かれていた。

「あ、これをストレスなく普通にこなせる力が、日本における会社生活に重要なんだ」

これを理解しつつも、ストレスが溜まりとても出来ない私は、自分にのび太の残像を重ねて今日も会社に行く。

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