さらば!白覆面の魔王

プロレス

ザ・デストロイヤーが逝った。
88歳。
近年、立て続けに昭和の名レスラーの訃報を聞く中、80歳を超えても健在であり、レスラーとしてかなり長寿でこちらとしてもうれしい限りであっただけに残念でならない。

馬場没後20年追悼及びブッチャー引退セレモニーにデストロイヤーはドクターストップがかかって出場出来なかった。
長時間のフライトが身体に響くと。

それを聞き、私は嫌な予感はしていた矢先の訃報である。

デストロイヤーの初来日は1963年だ。
力道山との死闘が語り草になっているが、力道山が死んだのも1963年。
その力道山がヤクザに刺された時、デストロイヤーはその席での酒に誘われていたというのも有名な話だが、如何に彼が日本マット界と因縁が深いかを物語っている。

デストロイヤーは1930年生まれ。戦前生まれであり、1941年の真珠湾攻撃のイメージから日本嫌いで日本遠征も拒否していたのだという。

運命とは本当に偶然の重なりだ。
歴史にifはないが、この時デストロイヤーがWWA王者にならなかったら、力道山との縁はなかったかもしれない。
否、日本マット界との縁もなかった可能性もあるのだ。

アメリカマット界ではデストロイヤー級のトップレスラーはゴロゴロいる。
だが、彼ほど日本と相性が良かったレスラーはそうはいない。

あのブッチャーやシンもアメリカでの格はデストロイヤーとは比較にならないほど低い。
そう。ブッチャー&シンはアメリカで売れっ子じゃなかったからこそ、ハングリー精神で日本で売れたのだ。

既にアメリカで売れっ子でトップを取ったデストロイヤーが後に日本に移住し、日本のバラエティー番組でお笑いタレントとしてもブレイクするとは誰が予測したろう。

力道山とのWWA世界ヘビー級選手権はあの足四の字固めの血だるまの攻防で64%もの視聴率を記録した。
覆面にビールの王冠を入れた凶器入り頭突きで力道山を血だるまにし、力道山は空手チョップでデストロイヤーの前歯を叩き折った。

プロレスは確かにショーだ。
だが、力道山のプロレスは、外国人レスラーからは「ガチンコ」も交じった攻撃をするため、警戒され、嫌われてもいた。
その力道山と堂々と血まみれの死闘を演じたデストロイヤーは、後に71年のワールドリーグ戦での猪木戦でも見せたシュートの強さ、そしてそのシュートをプロレスの試合内に収める技量を持つ超一流のレスラーだった。

力道山vs木村雅彦のような殺伐とした観客不在のシュート(ブック破り)ではなく、観客が拍手を贈れるシュート試合。
相手を潰さず、自分も潰されず。
これは非常に評価されるべきことだろう。

プロレスが真剣勝負の競技でないのが皆に明らかになった今、こういった彼の功績をどんどん公表してもいいと思う。

力道山との死闘、そして半年後の力道山との死別、翌年の豊登とのWWA王座を巡る疑惑の判定での王者交代劇。
日本マット界において壮絶な足跡を残し、デストロイヤーは一躍来日外人レスラーの常連となっていった。

シャープ兄弟、狂える巨像ジェス・オルテガ、覆面神父ミスター・アトミック、鉄人ルー・テーズ、銀髪鬼フレッド・ブラッシー、黒い魔人ボボ・ブラジル、人間台風ドン・レオ・ジョナサン、殺人狂キラー・コワルスキー、力道山と死闘を演じた超大物外人の中でも、人気は頭一つ抜けていた。

それはやはりプロレス技の代名詞にもなった足四の字固めという必殺技、そしてシンプルで誰にでも覚えられるその白覆面というキャラクターだろう。

後のブッチャーより数年早く、デストロイヤーは「日本一有名な外人レスラー」の座を掴んでいた。

1972年。
私が生まれた年、ジャイアント馬場は日本プロレスから独立し、日本テレビのバックアップを受けて全日本プロレスを旗揚げした。
まだ日本人の主力が全然そろっていない。
国際プロレスからサンダー杉山を金銭トレードで獲得し、ナンバー2の座に置いたが、やはり杉山だけでは厳しい。

ジャンボ鶴田はスカウトしたばかりで、これからアメリカで修行させるという時。
そこで馬場はデストロイヤーに白羽の矢を立てた。

デストロイヤーは当時42歳。
アメリカでそろそろ下り坂になっていた時だ。

既に来日10回以上を数えており、圧倒的な来日回数を誇っていたデストロイヤーは日本を熟知していた。

「馬場に負けたら日本陣営に入り、馬場の味方になる」

いかにもプロレス的な、わかりやす過ぎるストーリーだ。

そして彼は予定通り馬場に負けた。
私はもうちょっと、時期や理由を工夫したらよかったのにとは後にこのストーリーを知った時思ったのだが、全日本プロレスにはその余裕はなかったのだろう。

トップ外人レスラーだったデストロイヤーは、約束通り日本陣営となる。
そしてあのブッチャーとの血まみれの死闘で全日本初期を支えた。

テリー・ファンクがフォークでブッチャーに刺されて大ブレイクした3年前の出来事である。

その大流血戦の一方で和田アキ子との掛け合いで「噂のチャンネル」にお笑いタレントとして出る。
マットに上がればブッチャーと大流血戦だ。

おの二つの顔を巧みに使い分け、デストロイヤーはますます知名度をアップさせた。

当時のプロレス雑誌にも「あの力道山と死闘を演じ、キラー・コワルスキーの顔面を張った恐ろしい迫力の魔王に戻ってほしい」という投稿や記事があった。

だが、今にして思うと、あのタレント業もまたデストロイヤーの大きな魅力を広げることとなった。
魔王の凄みと、お笑いタレントのチンドン屋デストロイヤー。

後にブッチャーやシンもお笑い番組で笑わせてくれたが、先陣を切ったデストロイヤーはまだ40代の頃だ。
見事にレスラーとタレントを両立させ、彼は79年日本を去って行った。

それから40年。
元のように外国陣営のレスラーとして来日する傍ら、あらゆる日本のイベントに出ては親交を深めていった魔王。
かつての宿敵・ブッチャーとの笑顔のツーショットも何枚も見た。

ブッチャー、スタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シンect・・・。
デストロイヤーと並ぶ著名外国人レスラーの中でも、デストロイヤーは最もアメリカで成功したレスラーだ。

ここは強調してもいいだろう。
デストロイヤーは日米を股にかけてトップを取り、そしてテレビ・タレントとしても一流だった。
それは彼が超一流の偉大なパフォーマーであったことを意味するのだ。

冥福を祈ろう。

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